イザヤの時代、表面的には立派な宗教生活を励んでいる人もいたようです。しかし、彼らは自分を誇り、自分の業を誇っていました。どれだけ自分が優れているかということをアピールし、そのような自分なのだから、主なる神も、また人々も、自分のことを賞賛すべきだし、それに見合う恵みと祝福が与えられるべきだと考えました。
そのような宗教的実践の一つが断食でした。彼らは自分が断食しているということを誇りましたけれども、主が求めておられたのは、弱い立場にある人を支え、また困難の中にある人に必要な助けをもたらすことでした。そのように生きる時、主は私たちを導き、渇きをいやし豊かに潤してくださいます。私たちは決して涸れ果てることなく、廃墟を建て直し、破れを繕う者としていただくことができます。私たちは自ら潤されるだけでなく、多くの人を潤す者とされるのです。