イスラエルの民は神にはなはだしく背き、神の裁きの下に置かれました。彼らは占いに頼り、偶像礼拝にふけりました。まさに偶像礼拝は彼らを愛し、贖って下さった主に対する霊的な不貞とも言えます。
しかし、主はそのようなイスラエルを全く滅ぼし尽くすことをせず、彼らが悔い改めて主の御許に帰ってくることを待ち望んでおられました。私たちの信じる神は聖なるお方です。そして私たちにも聖なるものであることを求めておられます。しかし、それは私たちが自分の力でどれだけ立派な歩みができるかということではありません。私たちに求められているのは、自分の罪や汚れをそのまま正直に認めて、砕かれたものとして主の御前に近づくことです。自分を高めるのではなく、自らを低くし、へりくだって、そのまま主の憐れみにすがることです。主は自らを低くし、打ち砕かれて近づく者を生かしてくださるからです。