この章の4節以降の言葉は三つ目のしもべの歌になります。神が救いのために遣わされるしもべなるメシアは、主のしもべとして忠実に歩みます。それは、本来、主に選ばれ、主の栄光をあらわすべきものとして立てられていたイスラエルの民が主に従うことをせず、罪を犯し続けたこととは非常に対称的です。
ここでもしもべなるメシヤは「私」と一人称で語ります。このしもべは「弟子としての舌」を与えられて、疲れた者を励ます言葉を語ります。しかし、このしもべなるお方がそのような命の言葉を語るのは、彼がきちんと主の言葉を聞いているからです。彼は朝ごとに主に呼び覚まされて主の言葉を聞きます。ただそれは単に耳で聞いているというだけではありません。5節には「主なる神は私の耳を開かれた」とありますが、この「耳を開く」とは、奴隷が主人の元に生涯止まって、主人に仕えることを決意し、その耳を柱に突き通すということを意味していると言われます。このしもべは生涯主の前に忠実に仕えるのです。