イスラエルの歴史の中では、主を礼拝するために人々がエルサレムに上るという習慣が廃れた時代がありました。また、エルサレムに行きたいと願っても、厳しい状況があって、そのことがなかなか許されない時代もあったことでしょう。しかし、そのような中で、人々の中に主への渇き、主を慕い求める思いが起こされ、ああ、エルサレムに行って、主を礼拝したいとという思いが募ってくる。そしてついに人々が言うのです。「主の家に行こう」。それはこの詩編の作者にとってもとてもうれしいことでした。私たちもまた共に集い、共に礼拝をささげることを当たり前のこととするのではなく、大きな恵みとして共に喜びたいと思います。
そしてこの詩編の記者はエルサレムに、そしてそこにある神殿に、また、そこに集うお互いに、平和があるようにと祈ります。平和の中で、落ち着いて主を礼拝することができるのは何と感謝なことでしょうか。私たちの教会や家庭、この国の平和を求めると共に、主に愛された都のためにも平和を祈りたいと思います。