この詩編の作者は「あなたは、いつ私のところに来られるのか」と主を待ち望みながら歩んでいます。主が来られることは確かで、その約束を信じて待っているのですが、主がいつ来てくださるのかは分かりません。「いつ」ということが伏せられているということは神の知恵であり、私たちに対する憐れみかもしれません。「いつ」ということが分かっていたら、私たちは案外、ギリギリまでサボってしまうかもしれないからです。
そして、この作者は主を待ち望む者として、いつ主がおいでになっても喜びをもって主の御前に立つことができるように、全き心をもって歩むのです。そして、「邪悪なこと」「主に背く行い」「曲がった心」「悪」「そしり」「高ぶり」「欺き」「偽り」「悪事」などを自分から遠ざけ、誠実な者たちと共に歩むのです。これは歩みであり、日々の一歩一歩の積み重ねです。私たちもまた、罪から離れ、主の御前に真実に歩むお互いでありたいと思います。