この詩編の記者は神の怒りの下に置かれているように感じています。それはイスラエルの民の罪のゆえです。それはとても愚かなことでした。けれどもイスラエルの民は悔い改め、主を仰いでいます。そのような中で、この詩編の記者は、神が、再び自分たちを生かしてくださることを、神を喜び祝うことを許してくださることを求めています。神が慈しみを示し、救ってくださることを求めているのです。「慈しみ」とは神が自ら語られたこと・約束されたことにどこまでも真実なお方であることを示し、旧約聖書において、神の愛を表すとても大切な言葉の一つです。
「慈しみとまこと」「義と平和」が神の中にはあります。「慈しみ」は私たちが不真実であってもどこまでも真実でいてくださる主を示しています。「平和」はシャロームで、主の祝福が満ち満ちている様子を示しています。ただ同時に主は「まこと」と「義」を表し、罪を憎み、正しい裁きを行われるお方です。一見、相容れないような御性質が主イエスの十字架には鮮やかに表されています。