エルサレムへの巡礼を恋い焦がれる詩編ともされています。バビロン捕囚は何回かにかけて成されたのですが、最初の時には、まだエルサレムの町も神殿も残され、限られた国の有力者たちや才能のある若者たちだけが連れ去られたとされます。そしてこの記者は、バビロンからエルサレムの神殿のことを思っていたのかもしれません。
それは単に神殿を思い、そこへの巡礼を慕い願うというだけではありません。それはまさに主ご自身を慕うことでもありました。エルサレムに心を向け、主に心を向けて生きる人は、嘆きの谷を通っても、そこを泉に変えてしまいます。「秋の雨」というのは、麦の種まきの前の雨で、「前の雨」とも言います。これは豊かな収穫のために欠かせないものであり、大きな祝福の雨でもありました。そして、主を慕う者たちは、やがて神にまみえます。この詩編の記者が願っているのは単に豊かになるとか、大きな家に住むとかということではなく、神の御前に、神に近くあるということだったのです。