偶像の神々は、私たちの欲望を聞き届けてくれるべき存在として、人間の手の業によって造られます。ですから偶像の神々は様々な罰を下したり、私たちを呪い、災いをもたらすとされることはあるかもしれませんが、基本、自ら言葉を語って、私たちに自分の意思を伝えることはありません。しかし、聖書の神は違います。聖書の神は自らが立ち上がり、私たちに語られるお方、「私こそ神、あなたの神」と宣言されるお方です。ですから、私たちにとって、大切なことは、このお方が語られるときに聞いて、従うということです。
確かに旧約聖書には、ささげものの規定があり、主の御前に感謝のいけにえを携えてくるべきことが書かれています。しかし、もし、そこに「感謝」や「礼拝」が失われてしまったら何にもなりません。ささげものにする動物も皆、神が造られた神のものだからです。神の前にへりくだり、感謝をもって、聞き従う者でありたいと思います。