この詩編の記者は「主はその聖なる宮におられる」と告白します。どんな苦難や災いの中に置かれることがあっても、この記者は主がおられる場所を知っているのです。だから彼は苦しみの中にあっても、主に助けを求めることができます。この「聖なる宮」とはイスラエルの人々にとってはエルサレムの神殿ということでしょう。しかし、同時に、この記者は神殿を越えて、その御座を天に置かれるお方として主を見つめています。私たちは天を仰いでいつでも主の前に近づくことができるのです。
そしてこの天の御座に座しておられるお方は、私たちのことを見つめていてくださっています。私たちはこのお方のまなざしの中に置かれているのです。そしてこの記者は苦難の時にも主を仰ぎ、このお方のもとに逃れます。どんな厳しい中に置かれていたとしても、主を逃れ場とする人はそこで救いをいただくことができるのです。