エリファズの議論に対して、ヨブも答えます。神がヨブを打たれたのです。自分が向き合っている苦しみは神が許されたものです。ただ、もしエリファズが言うように、ヨブの罪の結果として神の裁きが臨んでいると言うなら、ヨブが具体的にどんな過ちを犯したというのか教えて欲しいと、ヨブは言います。神の前に悔い改めるなら、神は赦しを与え、回復を与えてくださるというなら、一体自分は何を悔い改めたらよいのか。ヨブほど正しい人はその時代いなかったという中で、エリファズの呼びかける悔い改めの招きはヨブにとって何の救いにも慰めにもなりません。
そしてヨブはエリファズに対して、もしあなたが自分の友だったら、このような苦難の時こそ、慈しみを向けるべきではないのか。苦難の中にあって苦しんでいる友を責め、何も知らないにも関わらず断罪するとしたら、あなたの中に神に対する畏れがあるのか、とヨブは問いかけるのです。