神殿を建てるためには大量の費用と、材料となる金、銀、青銅、鉄、宝石などが必要でした。ダビデも王として精一杯の献げ物をしました。しかし同時に、彼はイスラエルの民にも献げ物を呼びかけます。ここで鍵になるのは「自ら進んで」ということです。ささげものは強いられてするものではありません。強いられてするささげものには心が伴わないからです。ダビデは王ですから、広く、税金という形で資金を集めることもできたでしょう。けれども、ダビデはひとりひとりが喜びをもって、自発的にささげることを期待したのです。もう一つダビデがここで呼びかけたのは「その手にあふれるほどの献げ物を」ということでした。主に献げるというときにケチケチしながら、余りものを少しささげるというのは献げる者の姿勢として間違っています。額や量の多い少ないはその人の持っているものによって違うでしょう。ただ献げ物は、そこで自分自身をささげることでもあるのです。そして、民はダビデの期待以上のことを喜んでしたのでした。