イスラエルの民は神によって選ばれた聖なる民でした。そしてそのイスラエルの民の中でも、祭司は特別に注意深く、神に仕える者としての歩みをすることが期待されていました。旧約聖書の時代には、誰でも不用意に神に近づくということは許されていなかったのです。それは祭司に託された大切な務めでした。ですからそのような尊い、聖い、特別な働きを委ねられている者は、特別な注意深さをもって、自らの聖さを保ち、また聖なる歩みをすることが求められています。
さて、私たちはこのような祭司の姿を見るときに、特別な宗教家だから・・・と思うかもしれません。ただ、宗教改革以降のプロテスタント教会においては、「万人祭司」ということが強調されました。私たちは誰でも、イエスの贖いによって神に近づくことが許されているし、すべてのキリスト者は神の御声を聞き、神に向かって祈りとりなすことが期待されているのです。その意味では、この祭司への語りかけは私たちへの語りかけでもあるのです。