細かい規定が続きます。しかし、これらは律法のすべてを網羅したものではありません。すべては「神を愛すること」とこの章の18節にある「隣人を自分のように愛しなさい」という戒めに集約されるのです。ですから、これらの律法の表面的な文字面を追って、違反を避けるということが大切なのではなく、私たちの動機が問われているのであり、また愛するということが動機であった場合、どのような具体的な生き方となっていくのかということが問われているのです。
またここには「聖なる者となりなさい」という言葉があります。そしてその土台として「私が聖なる者だから」と語られます。私たちは主が聖なるお方であることに何の戸惑いも異論もありません。しかし、主の聖を根拠として、私たちに聖を求められることには戸惑いを覚えます。私には無理だと思うのです。人間の力では無理でしょう。しかし、私たちを「聖」へと招いてくださる主は、私たちを聖なる者としてくださるのです。