教会が教会として立っていくために、主にあるよい長老や監督が立てられるということの重要さはいくら強調しても強調しすぎということはありません。お金があれば教会の役員になれるとか、家柄や社会的身分によって、教会の中のポジション?が得られるということではなく、その人がどのような信仰を持ち、その信仰が日常生活の中でどのような実を結んでいるかが問われます。
しかし、教会の指導者たちだけではありません。年老いた人には年老いた人なりの、若い人には若い人なりの、親には親の、子には子の、奴隷には奴隷の、主人には主人の、主にある生き方があります。
そしてパウロはテトス自身に対しても、人に要求し、人を評価し、裁くだけではなく、言葉においても行動においても、人々の前によい模範となるようにと教えます。言葉で指導するだけではなく、主にある信仰者の生き方を見える形で示していくことが大切なのです。