ラオデキヤの町はコロサイよりも西にありましたが、町と町のつながりは深く、しばしば行き来をしていたようです。パウロはラオデキヤやコロサイのキリスト者たちのことを心配しています。この手紙を書いている時、パウロはローマの獄中にいましたが、パウロのそのような苦しみはまさに、コロサイの人たちを含む主にある諸教会の人たちのためでもありました。
パウロはコロサイの人たちがさらに深く主イエスを知ってほしいと願っています。それはキリストのうちにこそ知恵と知識との宝がいっさい隠されているからです。キリストを知ること、もっと深く知ることは何にもまさる宝なのです。そして、ここでパウロは神の奥義であるキリストを知るためには、主にある兄弟姉妹たちが、励まし合い、共に愛によってつながっていることだと言います。まさに教会の交わりの中で、私たちはキリストを知るのです。