主イエス・キリストは私たちを罪の力から解放し、自由の霊によって生きる者としてくださいました。しかし、律法に従い、主イエスに対する信仰によって救われたのにもかかわらず、まるで律法を行うことによって義とされるかのように生きている人たちは、一度自由にされた奴隷のくびきをまた負っているようなものだと、パウロは指摘します。
私たちはとかく自分が何かしたとか、できるということに頼りたいものです。割礼があるということを聞き、割礼は受けるべきだと聞くと、自分のわざを誇るために割礼を受ける人たちがいたのです。
しかし、パウロは割礼を受け、律法によって義とされるようとする人たちに対して、あなたがたは恵みから落ちていると語ります。割礼のあるなしは私たちの救いには全く関係ありません。私たちは自分の行いによってではなく、信仰によって義とされるのです。